特発性過眠症と共に。

特発性過眠症と共に生きる。🚢☁☁

生きること

私はよく迷う。どうしようか、もうやめようか、やめてしまおうか。生きることは容易くない。

私がちょっとやっかいな病気を発症したのは10代の頃。はっきりとはわからないが中学生〜高校1生生の頃。周りから「いつも眠そうだね」って言われていた。特発性過眠症という原因不明の睡眠障害だった。いつも眠かった。

睡眠はとても個人的なものだ。その人が抱える眠気は本人以外には誰にもわからない。誰も自分以外の眠気は体験が出来ないから。誰かの言う「眠い」が果たしてどの位眠いのか、誰かの眠気と自分の眠気を比べることも出来ない。他人の眠気の強度は知る由もない。故に私も、自分が抱える眠気が尋常ではない眠気だということに気がつけなかった。発症してからおよそ12年。人から病院に行くことを勧められ初めて過眠症という睡眠障害だということが発覚した。特発性とは原因不明。治療法は確立されておらず、突然変異が起こらない限り治ることもない。選択肢は対処療法として服薬があるだけだった。眠気が異常過ぎて意識が保てず強制的に眠りに引きずり込まれる。みんなはなんであんなに元気なんだろう、不思議でしょうがなかったその疑問は解けた。私は睡眠の病気だったのだ。


起きることが泥沼から這い上がるような身体感覚を伴い、起きた直後から眠い。何十時間、何日眠り続けても眠気はなくならない。すっきりと目覚めることはない。私から眠くない時間はなくなってしまった。爽やかに朝を迎えられていたときの私はもういない。あまりに遠ざかってしまい、すっきり爽やかな朝はどんなだったかもう思い出せない。さみしい。私の頭はいつも眠い。発狂しそうな眠気を抱えながら、なんとか起きてはまた眠る。そもそも一日2〜4時間起きていられたら良い方だ。水分を取って、ご飯を一食、食べれたらはなまるだ。薬を服用し8時間ほど起きていられても、体に無理させてるから副作用や反動がある。


起きること、起きていることが、目を開けて存在していることが全エネルギーを使っても難しい。治ることはないという絶望にどうやって立ち向かったらいいのだろう。毎回負けている。連敗である。たどり着いた答えは負けながら生きる。絶望しながら生きることだった。あと何度この絶望を味わえばいいのだろう、そう思って何度目だろう。もうやめようか、やめてしまおうか。私はまた迷う。生きることを続けることを私は迷う。迷い、どうやってか気が狂いながらも続けようと生きるを決断してはまた迷う。迷いながら決断し、全くもって大丈夫じゃないままそれでも今なんとか生きている。私の「迷い」と「決断」は生きること。毎秒生きる方へ舵を切ることを決断し、よく迷い、また生きる方へと決断し、また迷って、「迷い」と「決断」を繰り返しながら生きている。迷うも決断するもどちらも動詞だから、動きが伴う。だけれど私の「迷い」と「決断」は布団の上だ。かろうじて意識があっても重力に逆らえず、布団に横たわっている。動詞で迷っている私は布団の上で動けずにいる。書いていて思う、なんだか滑稽だ。笑ってしまう。行動的な「迷い」と「決断」に憧れる。いつか私も、動詞らしく動きを伴う「迷い」と「決断」をしたい。それを夢に加えよう。私には夢がいっぱいある。やりたいことぜんぶ夢にして生きている。起きてないと、誰かと関係を結んだり、働いたり、人と関わったり、大好きな友人と時間を過ごしたり、出来ない。でも生きるをやめることを決断したら、可能性すら失ってしまう。どんなに眠る日々だって、生きている限り可能性を孕んでいる。私はちょっとやっかいな病気で眠る日々を送る人生だけど、生きてるってことは夢を現実にする可能性を秘めている。だからどんなに生きることをやめたいもう無理、やめようかって迷っても、生きることを決断して生きている。またすぐ迷うと思うけど、迷ってもいいからこの先も生きる方を決断していけたらいいなと思う。頼むぞ、未来の私。そうやって生きることを迷いながら決断しながら生きていく人生は、たぶんきっと悪くない。今、この瞬間も生きることを決断した私がいて、このブログを書いているのだから。悪くない、よね。


#「迷い」と「決断」

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